13 年度末処理
 1月末?補給本部で、造修補給会議があった。そこで突然、海幕経理課長から各造補所長に、艦船修理費等の年度末処理について、指示があった。「各修理費、通信維持費等の契約を、すべてルール通り3月末日で完了せよ。」という内容だった。「余りにも突然の話であること、歳出の契約はなんとかするしかないが、どうやったら国債はできるのか。」等々を考え、また補給本部長はじめ海幕経理課長、艦船課長等、施策を立案している責任者が出席している場所で、実行可能か不可かの議論をすることを躊躇したため、議事はそのまま進行してしまった。「大湊は修理線表上、歳出、国債ともかなり無理が生じるが、艦船、武器両部長の能力であれば、なんとか4月初旬ぐらいには、変更仕様書を契約に送付できるだろう。」とおぼろげながら考え、最後の確認として「本当にやるのか。」と質問したところ、「やります。お願いします。」との回答だった。会議終了後、他の造補所長から「お前、わざわざ確認していたが、なんか問題があるのか。」と聞かれた。「ここで簡単に説明するのは難しいが、国債の修理線表によっては、とてもじゃないが物理的に実行不可能である。」と返事した。(横須賀)高橋、(呉)小池、(佐世保)佐藤の造補所長は、同期であり、舞鶴は旧知の1期上の水谷所長だったので、お互い特に遠慮する必要がなかったのである。ただ、艦船マークは小生のみ、他は武器マーク、補給マークであったので、実務として契約業務を多く経験しているのは、小生のみだったようである。また、横須賀、佐世保の造補所長は、小生の前々と前の大湊造修所長であり、舞鶴の所長も大湊勤務したことがあるので、大湊行きに拒否感はなく、むしろ喜んで、急遽5造補所長の合意のもと、大湊で造修補給所長会議を実施することが決まった。この異変?を聞きつけた海幕ナントカ専門官である桑原1佐が参加を申し入れてきて、出席メンバーも決定した。
 企画室長が実施要領を作成、各造補所長、海幕桑原1佐に送付し、3月初旬?に下北の「湯の川温泉」で、造補所長会議を開催した。大造補所長から、修理線表と建前上の契約完了時期について、説明した。
 当時、大蔵省は歳出予算が不足していたため、艦船修理予算について、できる限り国債で成立させていた。国債は、国庫債務負担行為の略であり、年度をまたぐ工事等の契約で実施されるものである。すなわち、契約に基づく工事、製造等が、当該年度に完了していないため、年度末に契約金を支払うことができず、次年度以降に完工、納入した時点で、契約完了とする借金後払い方式そのものである。国債の契約行為そのものは、完工時までの物価上昇分、金利利子等を上乗せした国債レートを新しく適用し、当該年度内に契約金額を確定して、次年度以降に支払う約束をした借用書のようなものなので、借用の内容、金額が記入されていない、全く白紙の借用書などは、あり得ないのである。
 したがって、艦船修理費における2年国債は、当該年度末に契約を完了し、金額を確定しなければならないことが建前である。しかしながら、国債の乱発?で、修理線表の頭だけを当該年度に出し、工期のほとんどを次年度にした修理線表が、多々見られるようになった。元契約に問題はないが、修理線表上、装備品等の機器が、まだ分解、検査等を施工する前に、年度末に変更契約の工事内容、金額を確定し、変更契約を締結しなければならないことになる。しかしながら通常は、分解、検査等の結果をもって新替する部品、修理内容等を決定するので、この頭出し線表で変更契約を締結することは、物理的に実施不可能である。すなわち国債で変更契約を実施するためには、検査等で修理内容が決定した時期、すなわち全工期の半分程度経過した時期に、行うのが筋である。したがって、国債のみで定期検査等を施工する場合、10日ほど工期を当該年度に頭出しした線表では、変更契約は全く不可能であり、どうしても線表を優先する場合は、変更契約に次年度の歳出を充当しなければできない。
 しかし実際は、定期検査予算すべて当該年度の国債のみで成立しており、次年度歳出予算は全くなかった。このため、変更契約の確定時期が、5月以降にずれ込んでいても、このルール違反について、会計検査が黙認していたため、特に問題になっていなかった。したがって、国債による定検、年検の変更契約の仕様書作成、調達要求する時期について、工期終了時に実施することに、何ら疑念も持たない造補所、契約関連の担当が、ほとんどだったのである。これについて小生が知っている範囲では、「当該年度末において国債(含変更)を(仮)契約し、6月ごろに物価上昇、修理レートの上昇等を加味した国債レートを確定して、清算することになっている。このため1/2半期前期での会計検査では、大半の国債の契約については調査対象となっていなく、また(仮)契約書の提示を求められることもなかった。したがって実行上、なし崩し的に国債契約の時期を、施工完了後に行っていたのが現状であった。」のである。また国債レートを新たに査定して適用することなく、当該年度の歳出レートをそのまま使用していたようである。ある意味では、これを悪用した頭出し修理線表ともいえるのではないだろうか。この建前を、造修所担当時代から総監部契約係長にいろいろ教えられ、船体科長、艦船科長、艦船部長と調達、契約の最前線を順次経験した大造補所長とは異なり、他の造補所長がよく知らなかったのは、当然のことであろう。造補所長会議で、これらのことを詳細に説明した。造補所長会議の結果として、「修理線表を、国債のみで変更契約可能なように変更するか、または変更契約予算を次年度歳出に配慮する。」という通知文書を、海幕経理課長および装備課長宛?、大造補所長が代表して、送付することとなった。桑原1佐は、海幕に帰ってすぐに会議の内容を説明したが、「今更どうしろ。」ということだったようである。
 予想通り、海幕から無しの礫であったが、年度末処理を実行しなければならない。大湊では、両部長の努力で、変更仕様書をなんとか4月初旬に。契約に送付することができ、一応海幕の指示を守る?ことができた。しかし、佐世保等では艦船部、武器部では、半徹夜が何日も続き、この状態を知って危惧した佐総監が、海幕にクレームを入れたと聞いている。この指示は、その年度のみで終了し、経理サイドでは、この事案について小生が、謀略を図った主犯となっているようである。

14 安全管理
 大湊ドック等で施工される修理工事に、労働安全衛生法(以下安衛法)が、どのような形で適用されるのかは、大きな問題である。工作部のように艦船修理工事を実施する現業組織において、安全管理に安衛法を準拠する必要があることは異論がないであろう。しかしながら工作部のみ、すなわち官のみで修理工事を実施している場合の人身事故は、労災ではなく、公務災害となるので、安衛法が直接適用されることはないと思われる。当時、厚木基地の体育館の改修工事?で、労災が発生した。労基署は、施設管理をしている官の責任を追及する構えを見せたが、契約業者が1社だけであったので、安衛法に基づき元請負業者のみに、下請負業者の安全管理を行う義務、責任があると判断したようである。もし、複数の業者と個別契約を実施していたならば、官の責任が問われていたかもしれない。
 海上自衛隊の安全管理は、総監部の「安全に関する達」?で規定されているが、その対象は部隊安全であり、大湊ドック等における修理工事に、この達をそのまま適用することは、かなり無理がある。この艦船修理工事が何の事業形態かと問われれば、入渠を伴う修理工事なので、いわゆる商船における沖修理と同等とするのは難しく、造船業を営んでいると定義するのが妥当であろう。また、官民混交して修理工事を実施している状態について、部隊安全と全く異なっているのは明らかである。造船業は、安衛法で政令により建設業と並び特定事業に指定され、特定元方事業者(下請負人を使用する元請負人)は、下請け等の安全管理について、より厳しく義務付けられている。
 修理工事で、各修理業者と個別に契約しているのだから、安全管理はそれぞれの業者が行い、官には責任がないという意見もある。確かに、臨修、中修は、造船所に回航することなく、艦隊桟橋等で施工されており、工程管理、安全管理は、艦船部隊と修理業者が協議、実施しているので、造補所の責任を直接問われることは、ほとんどない。では年検時、大湊ドックに入渠中に、複数の業者が修理工事を施工している時、ある業者が塗装工事を行い、別の業者が隣で溶接を行ったことから火災事故が発生して、労災が起こった場合等、だれの責任で、その責任範囲は、如何になるのか。契約上、個別契約業者の中で元請負業者としての管理責任を果たす業者について、特に指名等を行っていないので、造船所としての施設管理を実施している造補所が、間違いなく責任を問われるであろう。そしてその責任範囲は、造船業の特定元方事業者として問われる可能性が大きい。
(1) 特定元方事業者
 大湊ドック等で実施する修理工事における、特定元方事業者に相当する者に、大湊造修補給所長を充てるのが、適当であろう。しかし安衛法では、特定元方事業者の責任範囲を、「船殻作業場の全域、艤装又は修理作業場の全域、造機作業場の全域、又は造船所の全域」と規定されているが、年検等において、入渠時以外は艦隊桟橋で修理工事は施工されている。この桟橋が、造補所長の管轄であれば問題ないが、総監部の管轄であることを考慮すると、両者を管理する立場として、総監に特定元方事業者としての責任を、問われることになりかねない。総監部の安全幹部は、確か管理部長だったと思うが、これも部隊安全を管轄するものであり、安衛法に基づく安全管理を負わせるは無理がある。また、安全管理をチェックする立場である監察官も同様である。しかしながら、もし総監に安衛法上の責任が問われる事態となると、仮に事業停止措置となった場合、部隊指揮が不能となる可能性もあり、非常にまずいこととなる。これを避けるためには、別途、総監部と調整し、達等で責任範囲を明確にする必要があると思われる。
(2) 統括安全衛生責任者
 特定元方事業者を造補所長とすれば、造補所の安全幹部である総務科長になるのが組織上、合理的である。しかし総務科長は事務官であり、現場の安全管理には無理がある。総務科には、安全係があるが、実態は係長一人配置の事務官であることが多く、これも無理がある。また副所長とした場合も、経補マークであることから、かなり厳しい状況である。
(3) 元方安全衛生管理者
 工作部長が一番の適任であるが、前述のとおり、年検、中修時における艦隊桟橋の修理工事まで、工作部長が管轄するのは、問題がある。しかし、ここで艦船部長または武器部長に切り替えるのも、実行上かなりの無理がある。

このように不確定な定義付を相談するために、「労働安全コンサルタント」があるが、当時青森では、どこにあるのかわからない状態だった。労基署に相談する手もあったが、全く白紙状態で相談した場合、うがった見方となるが、労基署から大湊ドックにおける安衛法の実態を公表された場合、とんでもないこととなる。したがって、安衛法に基づく安全管理を、最低限でも「ここにおける解釈はどうなるのか。」という程度の態勢を取ってからの方が良いという判断だった。
 議論する目的で、本稿を起こしたわけではないので、同時に工事を行う人数等の問題もあるが、安衛法についてはここまでとするので、現時点において責任ある人は、検討されたい。
 大湊造補所のドック等で施工される修理工事における、安全管理について、造補所達の原案を作成し、工作部長等と調整したが、工作部長の責務の大きさ、また工作部各科長の安全パトロール等の任務負担等で、なかなか調整が取れなかった。大湊造補所長の勤務もそろそろ終わりとなっても調整ができず、次の所長に持ち越しかとなった時、総務科長がこの状態を見て、「所長、このまま通しましょう。」と言い始めた。調整を通じて、安衛法に基づく安全管理の重要性と安全幹部としての役割の限界を感じたようである。したがって、少々無理であることは判っているが、一つの区切りとして、工作部の合意がなくてもマー良いかと造補所達として発簡したのである。(イタチの最後屁?)
この達は、工作部に厳しい要求をしている。そのわけは、「工作部は、むつ市における最大規模の地場産業であるので、雇用を守る義務がある。」ことである。しかしながら現状では、行㈡の採用が少なく、また工作部の人員削減の方向は変わっていない。この状況を打開するためには、工作部に行㈠の配置を増やすしかない。減員されないための施策の一つは、安全管理に従事する人員を確保することである。もう一つは、艦船部、武器部の検査工事について、立会検査を代行し、また要すれば検査成績書を作成する、検査員の役割である。工作部工事についての検査成績書は、すでに各科で作成済みであるが、業者修理工事の取りまとめにも拡大する必要がある。
 このような経過をたどった「安全管理に関する造補所達」であり、労働安全コンサルタントの助言もなしに発簡された達なので、小生の力不足もあり、おかしな点も多々あるものと思う。その後の見直しが必要であることは、言うまでもない。その後この見直しがあったのならば良いが、なければ、早急に見直しするべきである。

15 造修組合
 造補所の「安全管理に関する達」では、工作部工事のほか、業者工事も工程管理、安全管理しなければならないので、工作部の負担が非常に大きい。この負担を軽減させるため、造修組合の設立を図った。年検、中修時に、船体、機関、電気、武器等専門業者と個別に契約しているのを2つの案として
ア 個別仕様書をまとめて造修組合1社と契約する。
イ 船機電は、造修組合と契約し、その他専門業者の個別契約において、造修組合に全体の工程管理、安全管理を委ねることを明記する。もちろん造修組合には、管理費を別途支払う。
 これにより、造修組合の位置を元請負業者として、個別業者を管理させようとするものである。すなわち、工作部の大きな負担である安全管理責任を、すべて造修組合に肩代わりさせることが目的である。これは、造補所だけでは決められないので、総監部契約課と調整し、横須賀の造修組合の前例もあることから、特に大きな問題もなく、イ案で了承された。ただし、入出渠作業は、工作部がすべての作業を実施するので、除かなければならないだろう。須賀艦船部長が主体となって、大湊の艦船修理業者と調整し、造修組合の結成を働きかけた。
 当時、大湊地区の艦船修理業者は、船体工事を施工するA社(名前忘れた。)、機関工事の木村鉄工、電気および武器工事の精電社の3社があった。しかし、船体工事のA社が倒産したことから、A社が実施していた船体工事の引継ぎで、木村鉄工と精電社の綱引きがあり、結果として精電社が引継ぐこととなった。この経緯で木村鉄工は、造修組合が結成された場合、精電社が自分の都合の良いように工事を割当てるのではないかと、疑心暗鬼となったようである。また、木村鉄工は、ガスタービンの換装工事等で、チョンボした場合の復旧経費が非常に大きくなることから、川重または函館どつくの下請けに徹することで負担が軽くなるとして、組合に後向きだった。チョンボに対しては、保険を掛けることによって、復旧に関する経費の負担がなくなり、この保険に要する経費について、全額契約課が認めてくれたので、特に問題ないと思われた。小生はここまでで大湊アウト、その後、艦船部長のご努力で、なんとか造修組合は発足したようであるが、造修組合の主旨等を理解してもらえないのか、須賀艦船部長転出後、2社の確執が表面化し、あまりうまく行ってないようである。
 また、造修組合設立の目的の一つに、海自OBの再就職先の確保もあったのだが、残念なことである。

Ⅵ おわりに
 平成13年初夏、大監幕僚長から「所長配置を後輩に譲って東京業務隊付に転勤してはどうか」とのお話があった。その心は、「造補所長は大湊勤務も3年過ぎたため、地域調整手当がなくなる。造補所長の管理職手当はなくなるが、東京の調整手当で給与はほぼ同じになる」というもの。
 「東京業務隊付という配置はどんな仕事ですか」
 「定年までの待機配置で、東京業務隊に出勤するのは、始めと終わりの時で、用事がなければ、出勤の必要がない」
 と有難い事だった。気がつけば、5地方隊の初代造補所長を務めた者で、残っているのは小生一人だけであった。造補所長勤務に固執する理由もないので、幕僚長のお薦めのとおり、後を西浦1佐に託して、小生の海自における実質上の勤務は終わりとなった。大湊造修補給所長の着任前と離任後に、それぞれ半年ほどの何もしないぶらぶら配置となったのは、まさにご愛嬌そのものであった。
 それほど苦労、努力した覚えもないが、それなりに勤務したつもりであるので、特段の反省事項等はないが、唯一大湊における修理工事の安全管理体制を仕上げられなかったことだけが心残りであった。
 グダグダと書いてきたが、大湊で勤務する後輩諸官にとって「大湊造補所では何故そうなっているの?」の疑問について、本稿が少しでも参考になれば幸甚である。
 本稿は、小生の海自艦船技術勤務を通して行った良い事、悪い事について、順に起稿してきた「糞戦記」、「着艦拘束装置物語」等々の最後の稿としての位置にあり、後事を託すべき現役諸官に、種々の経緯について、可能な限り書き残すことによって、責任(?)を少しは果たすことができるのではと思っている。これらが、少しでも何かの参考にしていただけたら、何も言うことはない。
 なお、修理工事の安全管理について、言われるまでもなく、すでに体制ができているならば、本稿はなかったことにして頂きたい。
 まさに「老兵は、ただ消え去るのみ」である。
 最後に、至らぬ小生に変わらぬご支援頂いた関係者各位に心から感謝申し上げるところである。
 また、故須賀和男OBには、小生の技本主設時代に主設付として、大湊造補所長時代に艦船部長として、献身的に支えて頂いた。定年退職後若くして逝去されたことは真に残念であり、ここに改めて心からご冥福をお祈りする次第である。

                                   【 完 】

                                                      (コロナ禍中 令和3年6月18日) 
 
追記:この場を借りて、小生のその後の身の振り方について、ちょっとだけ述べさせて頂きたい。
 小生が再就職した当時は、建造造船所が5社あったが、現在東西それぞれ1社づつの計2社体制となっているが、再就職状況は如何に?
 小生は、定年退職後、中小企業である㈱シー・オー・シーに再就職した。
 船体班長時代に造船所の再編が始まり、「このままでは、船体マークの再就職先に造船所だけを対象としていては、先細りとなるので、機関・電気の様に装備品メーカに再就職先を確保しなければならない」と危惧し、装備品メーカを増やそうと努力した。また、「大湊で経験した現場知識を活用したい」という考えで、率先垂範(?)同社に再就職したのである。
 津田海幕艦船課長からは「また一旗揚げる気か」とお叱りを受けた。
 確かに、全く山っ気がなかったとは言いきれないが、真意はこのとおりなので、ご心配と迷惑をおかけしたことをご容赦願いたい。
 再就職後、佐賀県基山町の工場で勤務したが、驚いたことに、工場の現場には小生を含め職長(?)とたった2人しかいなかったのである。あと設計に若手の2人。しかも設計データについても、全く整理されていなかった。
 これをまともに運営するためには数年かかると思い、まず最初に現状の分析、状況把握に努めたが、なにせ工場のマンパワーが足りない。したがって、工場の目先の現場職人的な仕事を2人で処理するのが精一杯だった。
 この職人仕事は、嫌いではなく面白かったが、社長から見れば、「折角工場を適切に運営してもらうために工場長として来てもらったのに、全く成果がない」と見られ、成果を長期スパンで考えるか短期スパンで考えるかの、意見の不一致でお互い不満がたまってしまい、残念ながら工場長(?)を首になった。その後TVドラマの様に、まさに自分から依願退職を申し出させるための一人部屋の窓際配置となり、毎日することがなく、一日中事務所の前を通るJR九州の特急を眺めるだけの勤務状態となって、民間企業のいやらしさを身をもって経験することになった。
 ところがある日突然社長から「東京勤務で営業活動をしなくてよいので、当社勤務を続けてほしい」とのことで、東京の同社品川事務所で勤務を継続した。しかしその後、艦補処副所長から同社に打診された仕事をめぐって、またまた意見が合わず、「出社に及ばず」で在宅勤務となった。
 その後、ある事ない事(?)尾ひれ・お頭付きでいろいろと噂を立てられたが、特に周囲に事情等を話す必要性もないことから「何もしない給与泥棒」の位置を保ち、営業活動等で現役諸官にご迷惑をおかけしないよう在宅勤務に励んだ。
 これについては異論も多々あると思う。
 結果として、「範を垂れる(?)」つもりが見事に失敗してしまったことは、大いに反省するところである。ただ、民の厳しさ、難しさ、いやらしさ等を身をもって経験したのは、今思えば貴重な体験だったのは間違いない。
 上記社退職後、縁あって高校の同窓会会長(埼玉県商工会議所会長)から、「埼玉県防衛協会の事務局長をやれ」との命を受けた。会員は中小企業の会社社長、自営業者が主体のため、いろいろヤヤコシク調整が難しかったが、上記経験が大いに役立った。また東日本大震災の際、災害派遣を実施する埼玉県内の陸自、空自支援のため、震災直後に自転車で部隊巡りをし、当協会からそれなりの支援金を配ったのは良き思い出である。
 東京勤務、在宅勤務を通じて学んだことは、「暇を潰すのは意外と難しい」ということであった。このように言わば完全フリーな定年後の心構えを、第2の定年前に学習したことにより、今現在の「適当に遊び、適当に暇な生活」を満喫する心構え、準備ができていたのは、ある意味では幸運である。(ただし、このコロナ禍にはまいった。)
 小生の再就職に際して関係各位にいろいろご迷惑をおかけしたことを、ここに改めて深謝いたします。

大 湊 雑 感

元大湊造修補給所長 安 生 正 明
目次
Ⅴ 大湊造修補給所長兼大湊地方総監部技術補給監理官