大 湊 雑 感

元大湊造修補給所長 安 生 正 明
目次
10 キール盤木
 「はつゆき」型を入渠させるため、ソナーピットの拡大工事が海幕業計によって予定されていた。同時にキール盤木の老朽化している部分の新替工事が工作部で計画されていた。大湊ドックは、帝国海軍が大湊配備の重巡洋艦を整備、入渠させるために作られたドックであることから、縦横比が10対1。まさに重巡洋艦の長さ対幅比そのものである。そしてキール盤木に自然石を使用したコンクリート盤木を設置していた。民間のドックは、商船だけではなく海洋構造物等にも対応するため、キール盤木は組立盤木を使用するのが常識である。換装時に組立盤木にすることも可能だったが、海自の艦船しか入渠しないこと及び歴史的価値を考慮して、そのまま現用と同じコンクリート盤木に新替した。ただし、現状のコンクリート盤木の形状、材料等が帝国海軍時代の当初のものと同じかどうかの検証は行っていないことを付言しておく。

11 引揚船台
 大湊所属の支援船の検査・修理は、外注することなく、すべて造修所の引揚船台で行っているが、支援船の引き揚げ作業中に、別途配員された作業者が、海面に向かって何かを散布している。不思議に思い、何をしているかを尋ねたら、「船台を海中に降ろすと、車輪の軸受およびワイヤーからの油が海面に浮かぶため、界面活性剤を散布して油膜を除去している」と。
 船台は、最近換装したばかりと聞いていたので、施設係に確認したら、「換装前に使用していた車輪が、すべり軸受を使用していたので、これに倣い換装する軸受も同様に設計した」とのことであったが、民間の引揚船台の軸受を調べたところ、予想とおり密閉型の高耐力ローラベアリングを使用していた。
 当時使用していた帝国海軍時代のウィンチは、まだまだ現役で働いており、機能的にも能力的にもなんら問題なかったが、使用しているワイヤーが鋼製ワイヤーで、常時防錆が必要であるため、ドラムに巻取り中にマシン油を直接塗布していた。このため、ワイヤーからも海中に油が流失していたのである。正にオールドタイプそのものであった。
 これは拙いと至急換装したいが、船台を換装してまだ日が浅いので、予算要求の根拠を別に作らなくてはならない。そこで「引揚船台の油流失は、海洋汚染防止法上非常に大きな問題であり、ウィンチの換装と船台の車輪の軸受換装を早急に実施する必要がある」として、搦め手から部隊要望、予算化をお願いした。
 数年後、両装置は無事に予算化され、新替された。勿論ワイヤーもステンレスワイヤーに換えられている。

12 ドックハウス
 工作部長職は基本的に暇なので、工作部の敷地内をブラブラ視察?することが日課であった。
 ある日、何気なく引揚船台のウィンチ室を覘くと塗装業者が内部で塗料を攪拌し中だった。当日は寒い一日であり、塗料をそのまま使うには粘度が高いため、シンナーで薄める作業が必要なことは理解できるが、如何にせん場所が悪い。そこは引揚船台で修理を行う民間業者の控室として使用されており、当然の如く灯油ストーブで暖を採っていた。そのすぐ横でシンナーを使用していたのである。直ちに作業をやめさせたが、民間業者が休憩する場所がまともに用意されていないことが分かった。
 民間業者がどうやって休憩を採っているかを調査すると、総監部内に民間業者が使える食堂もないため、昼食・休憩は、車の中や屋外等で取っていた。夏季は良いとしても、気温が零下10度ぐらいまで下がる冬季は、絶対無理である。これはやばい、なんとかしなければならない。
 丁度その時、大湊ドックの悲願であったドックハウスの建設が予算化され、設計が始まっていた。設備係長は、陸上自衛隊から転換した技官であり、施設関係に詳しかった。海幕で予算化されたドックハウスの収容人員数は、部外の大手造船所のドックハウスを参考にして、護衛艦修理には必要十分な規模であった。母港から離れた部外造船所での修理においては、基本的に祝日や週末等を除き、ほとんどの乗員がドックハウスに泊まる。しかしながら、大湊ドックは母港内にあるため、課業が終われば、当直員以外は自宅または下宿に帰り、ドックハウス内に泊まるのは、当直員のみである。したがって、大湊のドックハウスは、非常時には乗員すべてが宿泊できるようにしなければならないが、平時は当直員+αで充分であり、このままでは平時において居住設備の一部が遊休設備となる。
 そこで、ドックハウスの設計を一部変更して、2階の廊下に開閉できる間仕切りを設け、乗員区画と完全に区分して、平時においては会議室及び業者の控室として使用できるよう配置した。また、外部階段を設け、屋外から会議室および控室に直接出入りできるようにした。勿論、非常時には居住区に戻せるようにした。これで、将来的に修理業者として来湊するであろうガスタービン主機メーカ、武器メーカ等にも無用の負担をかけないで済むことができた。

13 護衛艦「いそゆき」衝突事件
 着任後のドタバタも一息ついて、時は初夏。雪国の一番良い季節となった土曜日の朝。土日を利用して、艦船部の独身者と大湊チョンガーで、十和田方面にキャンプに行こうと準備をしているところに、「さわゆき」が八戸港で民船と衝突したとの情報が入った。キャンプを直ちに中止し、所長の了解の下、取り敢えず艦船部と工作部の主要なメンバーを緊急呼集した。
 当初、「船体後部に亀裂損傷が生じた」とのことであったが、大体艦の事故の第一報は、損傷をできるだけ小さくする傾向が多かったので、誰もこれを信用せず、いかに正確な情報を得るかを検討していた。そこに総監部から大空から八戸までヘリを飛ばすとの情報が入り、損傷状態の詳細な調査が必要と、半ば強引に、船体の担当官(名前失念)を同乗させて貰った。調査報告は、予想通り亀裂ではなく、外部が見えるほどの破孔であった。しかも長さが5~6m(正確な数値は忘れた)であり、破孔を塞がない限り、そのままでは航行は不能であった。ただ不幸中の幸いは、船体後部の喫水線上数メートルの外舷であっため、船体強度にも大きな影響はなく、防水と威容の問題があった。したがって、ここは本格的な応急修理する必要はなく、マスコミ対策が最優先となる。
 山本(紀)造修所長は鉄砲屋さんであり、海幕勤務時に護衛艦等の計画で大変お世話になっていた。「工作部長頼むよ。何か問題があったら動くから。」と全面的に任せて頂いたので、直ちに工作部において移動工作班派遣準備にかかった。
 この頃には工務科長はじめ、工務科の面々が集まり、移動工作班派遣準備を遺漏なく始めていた。大湊の工作部は、近傍に専門修理業者がないため、移動工作班的な応急修理はお手のものだった。しかし季節は、山には山菜、海にはカレイ釣りと、とても忙しい季節であり、当日は絶好の天気だったので、外出している工作部員が多く、携帯電話などは存在しない当時なかなか連絡が取れなかった。一番重要な鉄工係のベテラン技官にはなかなか連絡が取れなかったが、幸い若手の技官に連絡が取れたので、工務科と相談し、「今回は応急修理までもなく当板補修作業なので、早く派遣し、突貫工事となるのだからドック科等他科も含め、体力のある若手に任せた方がよい」と、ある意味では開き直ったのである。結果としてこれは良い判断だった。工作部の方針として、2つ以上の現業職種を経験させていた。このため、仕上科やドック科の中堅技官は、簡単な溶接もでき、重量物の移動にも慣れていた。したがって、現地ではベテラン飛内進製作科長の作業割り振りも良かったようで、組織編成はデコボコでも、作業はほぼ順調だったようである。
 話が少し飛ぶが、工作部長が舞鶴艦船部長時代、魚雷艇が若狭湾で定置網に突入し、プロペラ軸3本がワイヤー入りのロープに絡め取られて全く身動きができなくなる事故が発生した。乗員が何度も潜水してロープを何とか切断して、取り敢えず網からフリーになっても、自力航行は全く不可能で、曵船で舞鶴港に曳かれて造修所岸壁に入港した。マスコミが来たらやばいと、直ちに正門を完全に締め切り、所員の出入りは裏口の警備隊門とした。予想通りマスコミが正門前に集まって「入れろ」とのコールがうるさかったが、「入場の許可は総監部で」と門前払い。総監部に行ったマスコミだが、総務だ広報だと担当部署の押し付け合いで時間ばかりかかって、なかなか許可が出ない。こちらは「許可がなければ中に入れません」と押し問答しているうちに日没時間切れとなった。夕刻のテレビニュースに一応放送されたが、対岸からの望遠レンズの映像のみ。損傷部分は水の中なので、センセーショナルな扱いはできず、また隊員へのインタビューも全くなかったので、ニュースの扱いは極めて控えめになった。
 この経験があった工作部長は、「さわゆき」の事故において一番重要なのは対マスコミであることを認識し、マスコミには損傷した護衛艦の写真を撮らせない、即ちボロ隠しをする方針を立てたのである。清水船体科長と相談し、破孔部の外板は4.5ミリであったが、補強骨材を入れる時間がないこと及び溶接性を考慮して、外板面の凹凸を少なくするため、6ミリの鋼板をもって当板補修することとした。船体科長は直ちに6ミリ鋼板の手配、栖原艦船部長は資材業者および総監部との調整を行い、工作部長は移動工作班の派遣準備に取り掛かった。
 工作部長は、移動工作班長の瓜生1尉(船体科)に、次の様に策を授けた。
 「艦側は混乱していて海保との折衝はできないだろう。海保は、何だかんだと証拠保全を理由に時間をかけてきて、修理開始するのを渋るであろう。そこで班長が海保と積極的に折衝し、『マスコミ等、外部に出さない事を保証してくれれば、現場の証拠写真でもなんでもOKです。しかし、お互いこのような無様な姿を、マスコミに写真を撮られたくないのは同じでしょう。したがって直ぐに修理をさせて下さい』と、海保を泣き落とし、脅し何でもありで、すぐ修理できるように説得しろ」と、偉そうに宣う工作部長だった。
 また、工作部長は班長補佐の人選にあたり、ベテランで頼りになる製作科長は、その分日頃うるさいことから、若い移動工作班長を萎縮させないために、他の科長にする腹づもりだったが、製作科長が「これは、来年定年を迎える自分にとって最後の仕事になるので、班長の指揮に従うから絶対に行かせてくれ。お願いします。」というので、マーここは止むなしとしたが、少々心配したのは事実である。製作科長は、約束とおり作業手順、工作部員の作業分担等でよく班長を補佐し、任務完遂に大きく貢献したことは、誠に感謝そのものである。
 話は戻り、昼前にすべての準備を完了したが、肝心の派遣命令が出ない。仕様が無いので昼食休憩とし、集まった工作部員も一旦ブレイクし、待機状態となった。艦船部にいた隊員は、休日の昼でも出前可能な、総監部近くの店から昼食を取り寄せ、昼食を済ませた。しばらくして艦船部長を筆頭に、業者や総監部と調整していた艦船部員が艦船部に帰ってきて、「自分たちの昼食は?」と聞くが、艦船部居残り組にしてみれば、時間も時間なので「艦船部長等は当然昼食は済ませているもの」と思っていたので、何の用意もしていなかった。出前を頼める時間も過ぎていたので、このままでは昼食抜きを余儀なくされるところ、キャンプの準備で前日に購入していたカレーの材料(肉だけは当日購入予定)があることに気付き、急遽肉なしカレーを作り、艦船部長以下、無事昼食にありつけることができ、キャンプ食料も無駄なく処分することができた。
 八戸基地の航空工作部長から「艦船修理は良く分からないが、八戸として何か協力できることはないか」と電話を頂いた。工作部のクレーン車は、アウトリーチも長く性能は十分であったが、如何にせん大型過ぎて、八戸までの道路輸送(自力走行)はかなりの負担である。そこに渡りに船でこの電話なので、クレーン車の手配をお願いしたところ、快く引き受けて貰えた。これで八戸までの移動時間の短縮と負担の軽減化を図れた。
 後日八戸航空工作部長と総監部でお会いする機会があったので、クレーン車手配のお礼を述べたところ、「派遣された移動工作班長が、部隊、海保と調整、折衝しているのをみて、とても航空技術の若手にはできないと感心した。艦船技術はどのようにして若手幹部を教育しているのか」と賛辞が返ってきた。瓜生1尉は、かなり頑張って呉れたようである。
 さて、いくら待っても、移動工作班派遣依頼が出ない。「さわゆき」は横須賀所属艦なので、大湊独断で派遣はできない。このままでは八戸到着前に日暮れとなってしまい、移動の負担も大きくなる。所長に「このままでは、八戸までの移動が大変となる。とりあえず、派遣訓練として出発させ、三沢で電話連絡させて、派遣の最終調整をしたい」と所長に具申したところ、所長は待機時間にテニスをしていた服装そのまま「あいよ」とばかり、総監に報告、了承を頂いた。直ちに、ブレイクした工作部員を呼び戻し、八戸に向け出発したのである。中には、もうないだろうと、30分かけて家に帰ったら、すぐに電話を貰い、とんぼ返りさせられた工作部員もいたようである。出発して暫くして海幕から、派遣要請が出た。予定通り三沢の公衆電話から連絡があり、「そのまま八戸に向かえ。」と指示。夕刻に無事八戸に到着した。
 当日は、損傷範囲に合わせ、用意した鋼板を数枚接続し、翌日クレーンにて吊り上げて当て板補修をすることした。職種がバラバラであったのにもかかわらず、それぞれの職種の長所を発揮し、翌日には無事当板補修を終了。乗員により塗装をした損傷個所は完全にカバーされ、見た目は全く分からないようになっていた。大湊の工作部員の能力が、期待通り極めて高いことを証明してくれたのである。八戸港の防波堤にカメラを並べ護衛艦のみじめな姿を撮ろうと意気込んでいたマスコミに、完全にスカを食らわせることができ、「ザマー見ろ」と大変気持ち良かったのは、小生だけではなかったと思う。
 「さわゆき」は、八戸を出港し、横須賀に戻らずそのままIHIの東京工場に直行していた。IHIの森岡営業部長から電話で「安生さんずるいよ。入港時みんな双眼鏡で見ても、どこが損傷したと解らなかったのが、「さわゆき」に入ってみたら、中はグチャグチャじゃないの。」と笑われた。
 林崎総監が非常に喜ばれて、工作部長に「部隊表彰をするから、ちょっとこっちに来い。」と言われた時、「部隊表彰より、時間外で頑張ってくれた、工作部員にできるだけの時間外手当が欲しい。」と、とんでもないお願いをする工作部長である。総監は、「部隊表彰は、なしだぞ。」と言われた。工作部長は「構いません、」と総監部管理部長、人事専門官がいる前で、のたまう。結局、時間外手当は完全ではないが、満足できるレベルをご配慮頂いたようである。いつもは、代休等でごまかされる?ところを、かなりの額だったようで、その後、工作部内で「部長、今度ある時は、絶対声をかけてください。」という輩が、かなりいた。
 林崎総監に感謝感謝である。
(続く)
Ⅱ 大湊造修所工作部長