大 湊 雑 感

元大湊造修補給所長 安 生 正 明
 小生が再就職した当時は、建造造船所が5社あったが、現在東西それぞれ1社づつの計2社体制となっているが、再就職状況は如何に?
 小生は、定年退職後、中小企業である㈱シー・オー・シーに再就職した。
 船体班長時代に造船所の再編が始まり、「このままでは、船体マークの再就職先に造船所だけを対象としていては、先細りとなるので、機関・電気の様に装備品メーカに再就職先を確保しなければならない」と危惧し、装備品メーカを増やそうと努力した。また、「大湊で経験した現場知識を活用したい」という考えで、率先垂範(?)同社に再就職したのである。
 津田海幕艦船課長からは「また一旗揚げる気か」とお叱りを受けた。
 確かに、全く山っ気がなかったとは言いきれないが、真意はこのとおりなので、ご心配と迷惑をおかけしたことをご容赦願いたい。
 再就職後、佐賀県基山町の工場で勤務したが、驚いたことに、工場の現場には小生を含め職長(?)とたった2人しかいなかったのである。あと設計に若手の2人。しかも設計データについても、全く整理されていなかった。
 これをまともに運営するためには数年かかると思い、まず最初に現状の分析、状況把握に努めたが、なにせ工場のマンパワーが足りない。したがって、工場の目先の現場職人的な仕事を2人で処理するのが精一杯だった。
 この職人仕事は、嫌いではなく面白かったが、社長から見れば、「折角工場を適切に運営してもらうために工場長として来てもらったのに、全く成果がない」と見られ、成果を長期スパンで考えるか短期スパンで考えるかの、意見の不一致でお互い不満がたまってしまい、残念ながら工場長(?)を首になった。その後TVドラマの様に、まさに自分から依願退職を申し出させるための一人部屋の窓際配置となり、毎日することがなく、一日中事務所の前を通るJR九州の特急を眺めるだけの勤務状態となって、民間企業のいやらしさを身をもって経験することになった。
 ところがある日突然社長から「東京勤務で営業活動をしなくてよいので、当社勤務を続けてほしい」とのことで、東京の同社品川事務所で勤務を継続した。しかしその後、艦補処副所長から同社に打診された仕事をめぐって、またまた意見が合わず、「出社に及ばず」で在宅勤務となった。
 その後、ある事ない事(?)尾ひれ・お頭付きでいろいろと噂を立てられたが、特に周囲に事情等を話す必要性もないことから「何もしない給与泥棒」の位置を保ち、営業活動等で現役諸官にご迷惑をおかけしないよう在宅勤務に励んだ。
 これについては異論も多々あると思う。
 結果として、「範を垂れる(?)」つもりが見事に失敗してしまったことは、大いに反省するところである。ただ、民の厳しさ、難しさ、いやらしさ等を身をもって経験したのは、今思えば貴重な体験だったのは間違いない。
 上記社退職後、縁あって高校の同窓会会長(埼玉県商工会議所会長)から、「埼玉県防衛協会の事務局長をやれ」との命を受けた。会員は中小企業の会社社長、自営業者が主体のため、いろいろヤヤコシク調整が難しかったが、上記経験が大いに役立った。また東日本大震災の際、災害派遣を実施する埼玉県内の陸自、空自支援のため、震災直後に自転車で部隊巡りをし、当協会からそれなりの支援金を配ったのは良き思い出である。
 東京勤務、在宅勤務を通じて学んだことは、「暇を潰すのは意外と難しい」ということであった。このように言わば完全フリーな定年後の心構えを、第2の定年前に学習したことにより、今現在の「適当に遊び、適当に暇な生活」を満喫する心構え、準備ができていたのは、ある意味では幸運である。(ただし、このコロナ禍にはまいった。)
 小生の再就職に際して関係各位にいろいろご迷惑をおかけしたことを、ここに改めて深謝致します。
Ⅰ はじめに
  現在、コロナ禍で外出、旅行もままならぬ環境で、することもなく毎日ボーっとしていたが、それならボケ防止のために、少し大湊時代をまとめてみようと、なんとなく書き始めたところ、意外にもあれもこれもとなり、かなりの長編となってしまった。オマケに内容をよく見ると、「あれをやった、これをやった。」という、少々手柄話、武勇談的になってしまっていた。なぜそうなったかを考えると、大湊勤務はペーペーの時代ではなく、管理者、指揮官として勤務したので、どちらかというと自分の意思をもって施策等を実施できる立場にあったことから、結果として手柄話的になってしまったようである。
 このままでは、お恥ずかしいことの限りとなるので、ボツにしようと思ったが、海幕施策等による大湊ドック近代化の道程、工作部員の努力等を記すことについては、価値があるだろうと考え、残すことにした。ただ、他の迷惑を顧みない唯我独尊的な性格に難ある人間が行ったことでもあるので、これを不快に思う方は、途中で読み飛ばして頂きたい。
 これから大湊勤務を希望する現役諸官であれば、最終項の「安全管理」及び「造修組合」だけでも、読んで頂ければ幸いである。
 大湊の二度の勤務を振り返ると、小生が勤務を通して取り組んだことは、「大湊ドックについて、ハード・ソフトの両面を充実させて、可能な限り造船所相当の施設として機能させる」ことであり、また夢でもあった。そしてこの機能を発揮させるために特に留意したことは、「大湊ドックで施工する修理工事における労働安全衛生法の適用」であった。言い換えれば、「労災が発生した時の責任は如何に?」である。しかし残念ながら、小生の力不足もあって、結論を得ることができず時間切れとなってしまい、解決を後任者に委ねることになってしまったのが、唯一の心残りである。現在、この問題が解決されているかは、小生が知り得るところではないが、もしこの馬鹿話が、何かの参考になればと思うところである。
 既に大湊勤務を終えてから、20年が経ち、当時ご迷惑をおかけしたことが時効になるものと、またご容赦頂けるものと勝手に解釈している次第である。
追記:この場を借りて、小生のその後の身の振り方について、ちょっとだけ述べさせて頂きたい。
 平成13年初夏、大監幕僚長から「所長配置を後輩に譲って東京業務隊付に転勤してはどうか」とのお話があった。その心は、「造補所長は大湊勤務も3年過ぎたため、地域調整手当がなくなる。造補所長の管理職手当はなくなるが、東京の調整手当で給与はほぼ同じになる」というもの。
 「東京業務隊付という配置はどんな仕事ですか」
 「定年までの待機配置で、東京業務隊に出勤するのは、始めと終わりの時で、用事がなければ、出勤の必要がない」
 と有難い事だった。
 気がつけば、5地方隊の初代造補所長を務めた者で、残っているのは小生一人だけであった。造補所長勤務に固執する理由もないので、幕僚長のお薦めのとおり、後を西浦1佐に託して、小生の海自における実質上の勤務は終わりとなった。大湊造修補給所長の着任前と離任後に、それぞれ半年ほどの何もしないぶらぶら配置となったのは、まさにご愛嬌そのものであった。
 それほど苦労、努力した覚えもないが、それなりに勤務したつもりであるので、特段の反省事項等はないが、唯一大湊における修理工事の安全管理体制を仕上げられなかったことだけが心残りであった。
 グダグダと書いてきたが、大湊で勤務する後輩諸官にとって「大湊造補所では何故そうなっているの?」の疑問について、本稿が少しでも参考になれば幸甚である。
 本稿は、小生の海自艦船技術勤務を通して行った良い事、悪い事について、順に起稿してきた「糞戦記」、「着艦拘束装置物語」等々の最後の稿としての位置にあり、後事を託すべき現役諸官に、種々の経緯について、可能な限り書き残すことによって、責任(?)を少しは果たすことができるのではと思っている。これらが、少しでも何かの参考にしていただけたら、何も言うことはない。
 なお、修理工事の安全管理について、言われるまでもなく、既に体制ができているならば、本稿はなかったことにして頂きたい。
 まさに「老兵は、ただ消え去るのみ」である。
 最後に、至らぬ小生に変わらぬご支援頂いた関係者各位に心から感謝申し上げるところである。
 また、故須賀和男OBには、小生の技本主設時代に主設付として、大湊造補所長時代に艦船部長として、献身的に支えて頂いた。定年退職後若くして逝去されたとは誠に残念であり、ここに改めて心からご冥福をお祈りする次第である。
 (コロナ禍中 令和3年6月18日)
目次
(中略) 本論Ⅱ~Ⅴ(目次参照)は、後日掲載予定

Ⅵ おわりに